歴史

この項は、主に「山岸さんさ踊り保存会結成30周年記念祝賀会(2006年1月28日開催)に合わせ編纂した資料を基に作成しています。

【来歴】

山岸さんさ踊りの来歴は、その古文書が散逸したため、古老からの口伝によるのみである。

明治時代後期の写真等で、当時の活躍を窺い知ることができる。「山岸の踊り組み」として近代黎明期に、藤沢善太郎(太夫)の活躍が知られており、現在の保存会名誉会長である阿部利弥の叔父猪狩義郎や実父阿部重弥は当時、多くの太夫から芸能を伝授され、その伝統芸能が今に引き継がれている。

明治末期の写真

明治末期の写真…浴衣の「山若」の文字から山岸さんさ踊りのものとわかる
(盛岡市本町通 田口写真機店前・現名誉会長阿部利弥所蔵)


戦前戦後にかけては、さんさ踊りは先祖の供養として踊られることが多く、8月12日夕方より『笠揃え』を行い、太鼓、踊り、鉦、笛、唄、世話役の構成で14、15、16の3日間“門付け”をしながら市中を踊り廻った。『門付け』の祝儀で笠こし(かさこし)が楽しみであったと言う。

山岸地域も昭和30年代の戦後復興期に入ると、地域開発による新興住宅が急増したことによる地域社会構造の変化、また一方では映画やテレビの普及により娯楽内容も多様化する中で、さんさ踊りは、お盆を中心とする地域の演芸会や盆踊りの脇役として踊らされる以外は、地域からの各種行事の出演依頼で踊り継がれていた。

後継者も少なく、厳しい状況の時代もあったが、出演依頼者に失礼のないよう先代の太夫や師匠達の山岸さんさ踊りにかける意気込みを思い起こし指導に励んだと言う。

【「統合さんさ踊り」の誕生】

昭和46年(1971年)頃に「盛岡川まつり」が始まり、昭和49年の第4回「盛岡川まつり」において“見る祭り”から“参加する祭り”に大転換が行われ、盛岡に古くから伝わる「さんさ踊り」が一般市民も参加する祭りとして取り入れられるようになった。山岸さんさ踊りも川まつり行事の脇役として参加していた。

昭和50年(1975年)7月頃、当時の工藤巖市長から、盛岡市内のさんさ踊りの、数ある団体の中から20数名の代表者が市長室に招集された。この席で市長から、「盛岡には沢山のさんさ踊りがあるが、なんとか皆で楽しく踊れるものに統一出来ないか。」と相談を受けた。

しかし、各地域でそれぞれ独自に受け継がれたさんさ踊りが踊られ、テンポも一緒ではないこと等から統合までには大変な困難を極めた。

市の観光課が中心となりNHK盛岡放送局の別館で、各団体の太鼓の競演をくりかえし聞きながらとりまとめ、第1号の「統合さんさ踊り」が作られた。(現会長の阿部利弥は「そのときの太鼓の打ち合いは3時間続いた」と回想している。)

この統合さんさ踊りは、「山岸さんさ踊り」の「一拍子」を原型に少しアレンジしたものを取り入れたものであった。また、輪踊りの隊形作りなどに用いられる「通り太鼓」は「山岸さんさ踊り」で使われていたものがそのまま採用された。

現名誉会長の阿部利弥は、「市長室に呼ばれ、統合さんさ踊りの必要性、東北4大祭りの構想を伺いながら食べたカレーライスの味と一緒に集まった代表者の顔は今でも忘れられない。」と当時を回想している。その後の絆の結びつきの強さはもちろんである。

次は、各さんさ踊り団体を通じて一般市民への普及活動を進めることが課題であった。

一方、市では盛岡夏まつりの中心行事を「さんさ踊り」として統一した踊りの取り組みだけでなく、地域の伝統芸能を保存伝承する団体の育成強化政策も打ち出しており、その一環としてさんさ踊りの指導に不足している太鼓の貸し出しや助成を実施した。

【保存会の結成】

昭和51年(1976年)8月28日盛岡市観光課からの「盛岡夏まつり・さんさ踊り」成功と一般市民への「統合さんさ踊り」普及指導要請に応えることと、「山岸さんさ踊り」を『保存会』として後世に残すことを目的に、会員20数名が出席して山岸地区の寿司店「千成寿し」で保存会を結成した。

総会では、次の事項が決定された。

■ 山岸さんさ踊りが統合さんさ踊りに多く取り入れられたことから、一般市民への普及指導に積極的に取り組むこと。

■ 会員の伝統芸能に対する取り組み強化と統合さんさ踊りの指導者の育成、更に会員を募集すること。

■ 初代会長は高橋清民、事務局長は阿部利弥であること。

【山岸さんさ踊り保存会歴代会長】

初代 高橋清民(昭和51年~ )

2代 門脇省三( ~昭和56年)

3代 阿部利弥(昭和56年~平成23年、現名誉会長)

4代 作山敏彦(平成24年~平成27年、現顧問))

5代 高野文則(平成28年~)

【統合さんさ踊り二番「七夕くずし」の誕生】

昭和53年(1978年)、2つ目の「統合さんさ踊り」を取り入れることなり、同年4月3日、岩手県公会堂で盛岡さんさ踊り振興協議会の18団体が演技をした。山岸を含む3団体が最後まで審査に残り、その結果、山岸が演技した「ハラハラハラセ」が採用された。これが現在の二番「七夕くずし」である。

この年は、連日の指導会・練習会に連日のように呼ばれ、また本番の8月2日・3日には、先頭で太鼓を叩いた後、後ろの団体に戻って叩いた、と現名誉会長の阿部利弥は回想している。

【活動のあゆみ】

これまでの活動・出演歴については、「活動のあゆみ」をご覧ください。

【結び】

山岸さんさ踊り保存会は、結成以来、この30年間「盛岡さんさ踊り」と共に歩み、統一されたさんさ踊りを通じて盛岡市民の大衆文化の形成に積極的に参画してきた。

今一度、山岸さんさ踊りの原点を振り返って見たい。

歴代の太夫や師匠達が古来のさんさ踊りの伝統に心血を注いで取り組み、いたずらに改良することを決して許さなかったと言う。また、伝授の方法も今の指導と違い、太鼓や笛が少なかったこともあって、子供達や初心者はいつも手ほどき(指導を受ける)をもらえるものではなく、上手な師匠達の良いところを盗み取って覚えたものだと言う。

それは、幾百年も前から踊り継がれてきた一つ一つのさんさ踊りの中に、この土地で生きてきた人達の質実な生活のすべてがあり、命の限りこの土地や人を愛し続けた真実がこめられているのではないか。

定めある生命の続く限り、次の時代へあらゆる現象のすべてを真っ直ぐに伝えることではなかったのか。古来の伝統を守り、伝承することは、古い所作を伝えるだけではなく、踊りの振り、太鼓、笛の音色にしても修練を積み、それぞれのさんさ踊りの背景にある真実を追求することではないか。